
僕がお伝えしている逆立ちの根っこには、
「頑張りすぎないこと」 「無理をしないこと」
という考えがあります。
逆立ちというと、
- 「腕の筋肉をもっとつけないと」
- 「身体をまっすぐ固定しないと」
- 「絶対に動いてはいけない」
と思われることも多いかもしれません。
でも、僕が目指しているのは少し違います。
大切にしているのは、ゆるんだ状態を持ちながら、身体を積み上げていくこと。
骨と骨が自然な位置に積み重なっていけば、それほど大きな筋力を使わなくても身体を支えられるようになります。
余計な力が減れば、呼吸も止まりにくくなります。
逆立ちをしながらでも深く呼吸ができる。
そして、そのゆるんだ状態の中で、
自分の軸はどこにあるのか。 その中心はどこなのか。
身体で探していく。
僕にとっての逆立ちは、そんな遊びです。
石を使って力に頼りすぎない逆立ちの哲学を動画にしてみました
まずはこちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか。
動画の中では、いくつかの石を積み上げながら、僕が逆立ちのときに感じていることを表現しています。
もしこの感覚を、頭ではなく身体で理解してみたい方は、ぜひ実際に石を拾って積んでみてください。
おすすめなのは、手のひらに収まるくらいの、少し丸みがありながら平べったい石です。
丸すぎると積むこと自体が難しくなるので、最初は少し安定しやすい形のものがいいと思います。
そして、ただ積んでみる。
最初は、
「ここかな」
「もう少し右かな」
と考えながら置いていくのですが、いつの間にか石だけを見つめて、無我夢中になっていることがあります。
少し右へ。
少し左へ。
ほんの数ミリ動かしただけで、それまで揺れていた石が急に静かになる場所があります。
僕は、その瞬間がとても好きです。
力で押さえつけたわけではない。
固定したわけでもない。
ただ、石が一番落ち着ける場所を見つけただけ。
その感覚は、僕が逆立ちで自分の軸の中心を探しているときと、とてもよく似ています。
バランスとは、動かないことではありません。
動きながら、戻れる場所を知っていること。
石を積んでいると、そのことを身体で教えてもらえる気がします。
私たちの身体は、ひとつの塊ではない
石を一つひとつ、身体の一部分だと考えてみます。
- 手。
- 腕。
- 肩。
- 背中。
- 骨盤。
- 脚。
逆立ちをするとき、これらが一本の棒のように完全に固定されるわけではありません。
実際には、それぞれの場所で絶えず小さな動きが起きています。
指が少し床を押す。
肩がわずかに動く。
骨盤がほんの少し前後する。
脚が微妙に揺れる。
外から見ると静止しているように見えても、身体の内側ではずっと何かが動いています。
石も同じです。
きれいに積み上がった石を指でほんの少し触れると、わずかに揺れます。
けれど、中心から大きく外れていなければ、すぐには倒れません。
少し揺れて、
また戻る。
僕が逆立ちをしているときも、まさにこの感覚があります。
身体の動きを止めるのではなく、
小さな動きを許しながら、その都度中心を探していく。
「あ、少し右に行ったな」
と思ったら戻る。
「少し前に流れたな」
と思ったら戻る。
逆立ちとは、完璧な一点に留まり続けることではなく、中心から離れすぎないように微細な調整を繰り返していくことなのだと思っています。
「動かないようにする」ほど、身体は固くなる
反対に、
「絶対に動いてはいけない」
「きれいに一直線で止まらなければいけない」
と思って逆立ちをすると、身体はどうなるでしょうか。
腕を固める。
肩を固める。
お腹を固める。
脚まで固める。
身体全体を一本の棒のようにして、なんとか形を保とうとします。
もちろん、それも一つの方法です。
ただ、固定するためにはそれなりの力が必要になります。
すると、腕は疲れ、肩は苦しくなり、呼吸も浅くなっていきます。
そして最後には、
「もう無理」
となって降りる。
僕が目指している逆立ちは、そこではありません。
僕が大切にしているのは、
身体が動くことを最初から許しておくこと。
自然の流れに争わず、流れに身を委ねるとうまくいくということを以下の記事でまとめています。

そして、その動きの中で中心を探すことです。
力で抑え込むのではなく、
身体が今どこに行こうとしているのかを感じる。
少し動いたら、少し戻る。
また動いたら、また戻る。
それは身体を支配するというよりも、身体と対話している感覚に近いです。
揺れることを前提にすると、逆立ちは少し優しくなる

逆立ちに怖さを感じる理由の一つは、
「崩れてはいけない」
と思っているからかもしれません。
でも、そもそも身体は止まっていません。
呼吸をすれば胸郭は動きます。
心臓は鼓動しています。
血液は流れています。
筋肉も、関節も、内臓も、常に小さく変化しています。
身体は、生きている限り動き続けています。
それなのに逆立ちの瞬間だけ、
「完全に止まらなければいけない」
と考えるのは、少し不自然なのかもしれません。
だから僕は、
揺れることを前提に逆立ちをしています。
- 揺れてもいい。
- 動いてもいい。
- 少し崩れてもいい。
そのたびに、また中心を探せばいい。
そう考えると、身体の中に少し余白が生まれます。
失敗しないように身体を固めるのではなく、
何か起きても戻れる身体を育てていく。
僕にとっては、そのほうがずっと自然です。
自分で全部支えなくていい
もう一つ、僕がとても大切にしている感覚があります。
それは、
「自分で全部支えなければいけない」と思わないこと。
逆立ちをすると、
「腕で自分の身体を支えている」
と思いやすいです。
でも、本当に自分だけで支えているのでしょうか。
手の下には床があります。
床の下には地面があります。
さらにその下には、大地があります。
つまり、こちらが一方的に頑張って身体を支えているのではなく、反対側からも身体を受け止めてもらっています。

僕は逆立ちをするとき、
「大地に支えられている」
という感覚を大切にしています。
自分一人でなんとかしようとしない。
少し預ける。
少し委ねる。
そうすると、腕だけで何とかしようとしていた力が少し抜けます。
石を積むときも同じです。
一番下の石が地面に預けられているから、その上に次の石を置くことができる。
そして、その石がまた次の石を受け止めていく。
一つひとつが頑張っているわけではありません。
下にあるものへ少しずつ重さを渡しながら、全体として立っています。
逆立ちも、本来はもっとそんなものなのではないかと思っています。
自然は、そもそも固定されていない
自然を見ていると、完全に止まっているものはほとんどありません。
木は風に揺れます。
水は流れます。
雲は形を変えます。
石でさえ、長い時間の中では削られ、風化し、少しずつ姿を変えていきます。
自然はずっと変わっています。
それなのに僕たちは、身体だけは変わらず、
揺れず、崩れず、
完璧な状態を保とうとしてしまうことがあります。
でも、身体も自然の一部です。
揺れる。
変わる。
疲れる。
休む。
回復する。
また動く。
それが本来の流れだと思います。
だから僕は逆立ちでも、
自然の流れに抗うのではなく、その流れの中でバランスを取ること
を大切にしています。
川の流れを力いっぱい止めようとしたら、こちらが疲れてしまいます。
それよりも、流れを感じながら、その中で自分の位置を見つける。
逆立ちも同じです。
揺れを消すのではなく、
揺れの中で中心を見つけていく。
僕のいう「ゆるむ」とは、何もせず力を抜ききることではありません。
起きていることに逆らわず、それでも自分の中心を見失わないこと。
そこに、僕の逆立ちの哲学があります。
逆立ちは、人生と少し似ている
逆立ちは、人生と少し似ています。
人生も、ずっと安定しているわけではありません。
失敗したり、体調を崩したり、
大切なものを失ったり、
中心から大きく揺れることもあります。
でも、
人生はそもそも揺れるもの
と知っていたら、少し楽になります。
転んだら、また起きればいい。
中心から離れたら、また戻ればいい。
逆立ちも同じです。
崩れて、戻って、また崩れる。
その繰り返しの中で、
少しずつ自分の中心が分かってきます。
僕にとっての「七転び八起き」は、
根性で立ち上がることではなく、
転ぶことを前提に、それでもまた戻ってくること。
そのほうが、少し優しい気がします。
力に頼りすぎない逆立ちは、「自分の中心を知る練習」
力に頼りすぎない逆立ちは、
「自分の中心を知る練習」だと思っています。
何分キープできるか。
どれだけ筋力があるか。
きれいに止まれるか。
それだけが目的ではありません。
大切なのは、
「今、力んでいる」
「少し右に寄った」
「ここなら呼吸できる」
そんな小さな身体の声に気づくこと。
その感覚を育てていくと、少しずつ
「自分の中心はここなんだ」
と分かるようになります。
揺れてもいい。
転んでもいい。
中心から離れたら、また戻ればいい。
逆立ちを通して僕が伝えたいのは、
頑張って身体を支配することではなく、
自分の身体に気づき、中心へ戻る感覚を育てることです。
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