
僕は、逆立ちを教えるときに、すぐに技術の話から始めません。
手の置き方。
肩の使い方。
蹴り上げ方。
重心の位置。
もちろん、そうした技術も大切です。
けれど、その前にもっと大切なことがあると考えています。
それは、
どのような心と身体の状態で、逆立ちを始めるのか
ということです。
焦りながら始めるのか。
誰かに負けたくないという気持ちで始めるのか。
できない自分を変えなければならないと思いながら始めるのか。
それとも、
逆さまの世界を見てみたい。
普段とは違う身体の感覚を味わってみたい。
そんな好奇心から始めるのか。
同じ逆立ちをしていても、始まりの地点が違えば、身体の反応も変わってきます。
今回は、僕が逆立ちや施術、自然の観察を通して感じてきた「緊張」と「ゆるみ」について書いてみます。
なお、ここで書く内容は医学的な理論や治療法ではありません。
あくまでも、僕自身の経験と観察から生まれた身体観であり、個人的な哲学として読んでいただければと思います。
早く上達したい気持ちが、身体を固めることがある

何かを始めると、できるだけ早く上達したい。
早く結果を出したい。
完璧にできるようになりたい。
そう思うことがあります。
その気持ち自体が悪いわけではありません。
目指したい姿を思い描くことは、自分が進む方向を示してくれます。
けれど、
「できるようになりたい」
という願いが、
「早くできなければならない」
に変わった瞬間、心と身体に緊張が生まれます。
早くしなければならない。
失敗してはいけない。
人より遅れてはいけない。
そのように自分を急かし始めると、今の自分をそのまま受け取ることが難しくなります。
身体がまだ準備できていなくても、先へ進ませようとする。
怖さが残っていても、無視して蹴り上げる。
疲れていても、練習を続ける。
本来の自分の流れを待たず、理想の場所へ無理に連れていこうとするのです。
川の流れを止めようとすると、力が必要になる

川の中に入った場面を想像してみてください。
水は絶えず流れています。
その流れの中で、どうしても同じ位置にとどまろうとすれば、流れに逆らい続けなければなりません。
足に力を入れる。
身体を固める。
流されないように踏ん張る。
流れを止めることはできないので、自分の力を使って抵抗し続けることになります。
僕は、人間の成長もこれと似ていると思っています。
人にはそれぞれ、その人なりの時間があります。
身体の柔らかさ。
今までの運動経験。
筋力。恐怖心。
生活環境。練習に使える時間。
何もかもが違います。

それなのに、
「1ヶ月でできなければいけない」
「この人より早く上達したい」
「もっと近道があるはずだ」
と自分本来の時間を否定すると、身体と心は流れに逆らい始めます。
そして、逆らうために力が必要になります。
僕は、これが力みの一つの正体なのではないかと感じています。
コントロールしようとすると、身体は緊張する
人や物を、自分が望む方向へ無理に動かそうとするとき、手には力が入ります。
こちらへ来てほしい。
そこにいてほしい。
動かないでほしい。
そう思いながら相手をつかめば、自然と指や腕に力が入ります。
自分自身に対しても、同じことが起きます。
- 早く上達させたい。
- 理想の形にしなければならない。
- 失敗させたくない。
今の自分を無理に動かそうとすれば、身体は緊張します。
逆立ちでは、それがとても分かりやすく現れます。
落ちないように腕を固める。
腰が曲がらないように全身を締める。
バランスを崩さないように呼吸を止める。
すると、逆立ちをすることよりも、
「落ちないこと」
「崩れないこと」
「失敗しないこと」
が目的になっていきます。
けれど、逆立ちは本来、完全に動かないものではありません。
身体は小さく揺れながら、その都度バランスを取り続けています。
揺れをなくすことではなく、揺れの中で中心へ戻っていくこと。
それが逆立ちの安定だと僕は考えています。
ゆるむとは、余白をつくること
ゆるむという言葉は、ときに誤解されます。
何もしないこと。
力をまったく使わないこと。
だらしなくなること。
けれど、僕が考えるゆるみは、そのような状態ではありません。
ゆるむとは、
心と身体に余白がある状態
です。
余白があるから、何かが入ってこられます。
余白があるから、変化に気づけます。
余白があるから、予想外の出来事にも柔らかく対応できます。

予定がすべて埋まっている生活を想像してみてください。
朝から夜まで、仕事や約束が隙間なく入っている。
その状態で急な用事が入れば、自分の許容量を超えて動かなければなりません。
身体も同じです。
筋肉を常にいっぱいまで使っていると、小さな揺れや変化に対応する余裕がなくなります。
逆立ちでバランスが少し崩れたとき、さらに力を入れることしかできなくなる。
そして力を入れすぎることで、かえって大きく崩れてしまう。
だから、安定するためには力が必要であると同時に、
力を使わない場所を残しておくこと
も必要なのです。
よい逆立ちを育てるために、まず土を耕す
僕は、逆立ちの練習を野菜づくりに例えることがあります。

よい野菜を育てたいとき、種だけを見ていても育ちません。
その前に土を耕します。
固くなった土をほぐす。
栄養を与える。
水や光が届く環境をつくる。
そのうえで種をまき、芽が出るのを待ちます。
逆立ちも同じです。
いきなり完成した逆立ちを求めるのではなく、まず身体が逆立ちを受け入れられる土をつくる。
- 手のひらで床を感じる。
- 肩がどのように動いているかを知る。
- 呼吸が止まる瞬間に気づく。
- 逆さまになる怖さを観察する。
- 自分が力んでいる場所を知る。
こうした一つひとつの感覚が、逆立ちの土になります。
土が整っていないまま、何度も蹴り上げても、身体は同じ緊張を繰り返します。
けれど、土が少しずつ柔らかくなれば、同じ練習をしていても、身体の受け取り方が変わってきます。
生きることは、流れること
僕は、生きることは流れることだと思っています。
僕たちの身体の中では、さまざまなものが流れています。
呼吸が流れています。血液が流れています。
神経を通して、信号が伝わっています。
自然を見ても同じです。
川は流れます。風は流れます。
雲は流れます。海には海流があり、季節は巡ります。
植物は太陽や土から力を受け取り、動物は植物やほかの命を受け取りながら生きています。
命は、単独で止まって存在しているのではなく、絶えず何かとつながり、動き、循環しています。
僕たち人間も、その流れの外にいるわけではありません。
人間も自然の一部です。
だからこそ、身体も本来、流れの中で生きています。
緊張が続くと、流れは滞りやすくなる

流れている川の一部がせき止められ、そこだけ水が動かなくなったとします。
流れから切り離された水は、少しずつ濁りやすくなります。
酸素や新しい水が入りにくくなり、動きが失われていきます。
僕は身体の緊張も、これに似ていると感じています。
長いあいだ同じ場所に力が入り続ける。
呼吸が浅いまま過ごす。
忙しさの中で、常に気を張っている。
その状態が続くと、身体の一部が流れから切り離されたように固まっていきます。

もちろん、これは医学的な説明として述べているわけではありません。
施術や自分自身の身体を通して感じてきた、僕個人の身体観です。
身体に触れていると、固く動かなかった場所がゆるんだとき、呼吸や全身の動きまで変わっていくことがあります。
一部分だけが変わったのではなく、その場所が再び全体の流れに戻ったように感じるのです。
だから僕は、ゆるむことを、
自然な流れへ戻ること
だと考えています。
自然は、力で形を保っていない
木は、風が吹けば揺れます。
枝も葉も、動かないように固まっているわけではありません。
揺れながら、折れない形を保っています。
川は、岩にぶつかれば形を変えて流れます。
雲も、一つの形にとどまり続けません。
自然は常に変化しています。
それでも、自然としてのまとまりを失いません。
僕たちも、本来は同じなのではないでしょうか。
完全に動かないことが安定なのではなく、変化に合わせて動けることが安定である。
力を入れ続けることが強さなのではなく、必要に応じてゆるみ、必要なときに力を使えることが強さである。
逆立ちも、施術も、生き方も、僕の中ではこの部分でつながっています。
日本人は、自然を見る時間を持っていた
僕は、日本の文化を見ていると、昔の日本人は今よりも自然を観察する時間を持っていたのではないかと感じます。
俳句には、季節や天候、草木、虫、月の様子が描かれています。
日本の伝統色には、同じ青や赤の中にも、細かな違いを表すたくさんの名前があります。
浮世絵や日本画にも、風、雨、雪、波、山、草木の繊細な表情が描かれています。
それらは、自然を長く見つめる時間と心の余白がなければ、生まれにくいものだと思います。
現代の生活では、仕事や予定、情報に追われ、自然の小さな変化に気づく余裕を失いやすくなっています。
仕事では競争や責任があり、身を守るために気を張ることも必要です。
しかし、その状態を一日中、家に帰ってからも、眠る直前まで続けていれば、身体はいつゆるめばよいのでしょうか。
常にガードを上げたままでは、身体が固くなるのも自然なことです。
だから、緩む感覚を取り戻したいとき、自然を見ることは一つの入り口になります。
風に揺れる葉を見る。
川の音を聞く。
空の色の変化を見る。
月を眺める。
自然の流れを観察していると、自分もその流れの一部であったことを思い出しやすくなります。
逆立ちは、落ちないためにするものではない
僕は、逆立ちは落ちないためにするものではないと思っています。
逆さまの世界を見るためにする。
普段とは違う自分の身体を知るためにする。
できなかったことが、少しずつできるようになる過程を楽しむためにする。
逆立ちをした瞬間、
あ、逆さまになるって面白いな
と思えたら、それだけでも十分な始まりです。
けれど、
「落ちてはいけない」
「失敗してはいけない」
「きれいに止まらなければならない」
という前提から始めると、身体は遊ぶことを忘れます。
逆立ちが冒険ではなく、試験になります。
僕は、逆立ちを試験にしたくありません。
もっと遊びであっていい。
もっと好奇心であっていい。
もっと笑っていい。
落ちても、またやればいい。
一度でできなくても、その経験は次の感覚につながっています。
失敗ではなく、自分の身体を知るための一つの階段です。
目指す姿は持ちながら、急いで手に入れようとしない

ゆるんだ状態で逆立ちをしている自分。
呼吸をしながら、軽く身体を支えている自分。
逆さまの世界を楽しみながら、静かに止まっている自分。
そのような姿を思い描くことは、とても大切です。
しかし、
「その姿に今すぐならなければいけない」
と思う必要はありません。
イメージは方向を示してくれます。
焦りは、自分を無理に引っ張ります。
この二つは似ているようで、まったく違います。
未来の自分を信じながら、今の身体に必要な時間も信じる。
すぐに結果が見えなくても、土の中では変化が起きているかもしれません。
芽が出ていないからといって、何も育っていないわけではありません。
ゆるむことは、本来の自分に戻ること

緩むことは、新しい能力を無理に手に入れることではありません。
僕は、本来持っていた感覚を思い出すことだと思っています。
- 自分の呼吸を感じること。
- 身体の小さな揺れに気づくこと。
- 自然の変化を見ること。
- 急ぐ必要がない時間を過ごすこと。
- できない自分を、すぐに変えようとしないこと。
それらを重ねていくと、身体の中に少しずつ余白が戻ってきます。
余白が戻ると、そこに新しい感覚が入ってきます。
逆立ちの技術も、施術を受け取る感覚も、人との触れ合いも、余白があるからこそ深く感じられるのだと思います。
まとめ|流れを信じる身体へ
生きることは、流れること。
流れを止めるのではなく、その中で自分なりの中心を見つけていく。
それが、僕の考えるゆるみです。
そして逆立ちは、その感覚を身体全体で知るための、とても面白い入り口なのだと思います。
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