死について感じていること|人生を苦しめる現代の死の価値観

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生まれた瞬間から、死は確定する。

スキンシップ研究家 水月 遊

これは避けられない事実です。

だけど、毎日生活していると、この当たり前のことを私たちは簡単に忘れます。

朝起きて、仕事をして、ご飯を食べて、人と話して、明日の予定を立てる。

来月の予定を立てる。

来年のことを考える。

5年後、10年後の人生を想像する。

そうやって生きているうちに、いつの間にか「明日も生きている」ということが前提になっていきます。

そして、身近な人が亡くなったり、自分自身が死を感じるような出来事に遭遇したりすると、また思い出します。

そう。

死と常に隣り合わせにいる

生きている限り、僕たちは常に「死」と隣り合わせにいる。

ただ、いつ死ぬのかは誰にもわかりません。

人間の平均寿命が上がったからといって、自分が必ず80歳、90歳まで生きられる保証なんてありません。

明日かもしれない。

来年かもしれない。

50年後かもしれない。

それはわからない。

そして僕は、死そのものに「悪い」「良い」という正義も存在しないと思っています。

花が咲いて、枯れる。

葉が生まれて、落ちる。

動物が生まれて、死ぬ。

人間も同じです。

この記事では、僕自身が「死」について感じていることを共有します。

そして、なぜ現代社会の死に対する価値観が、ときに僕たちの人生を必要以上に苦しくさせているのか。

僕なりに考えてみたいと思います。

死は特別ではない

生と死

生と死は、陰陽のような関係を持っています。

生きているということは、やがて死が来るということ。

これは自然の法則です。

そして、この生と死は、僕たちの身の回りで毎日のように起きています。

  • 動物が死ぬ
  • 昆虫が死ぬ
  • 魚が死ぬ
  • 植物が枯れる
  • 夏に生まれたセミが、秋を迎える前に死ぬ

そして人間も、生まれて死ぬ。

自然の中では、生と死が絶えず繰り返されています。

もちろん、愛する家族や友人が亡くなれば悲しいです。

涙が出るかもしれない。

怒りが出るかもしれない。

「もっと話したかった」

「もっと一緒にいたかった」

そんな気持ちが湧き上がることもあるでしょう。

それはとても自然なことです。

だからこそ、僕は出てくる感情を無理に押し込める必要はないと思っています。

  • 泣きたいなら泣く
  • 悲しいなら悲しむ
  • 叫びたいなら叫ぶ

感情が身体を通っていくことを許す。

ただ、悲しむことと、過去の中に生き続けることは違うとも思っています。

感情に蓋をしたまま、何年も何十年も頭の中で同じ記憶を繰り返す。

何かをしている最中に亡くなった人のことを考えて、今ここにいられなくなる。
ゆっくりしようとしているときにも過去の記憶を持ってきて、また自分を苦しめる。

そうやって、亡くなった人と一緒に自分の時間まで止めてしまう必要はないと思うのです。

悲しみが癒えるまでの時間は、人それぞれです。

「いつまでに立ち直らなければいけない」という話ではありません。

ただ、いつかはまた、自分の人生に戻ってくる。

僕はそれが大切だと思っています。

亡くなった相手も、おそらくあなたに残りの人生を悲しみ続けてほしいとは願っていないでしょう。

人生を楽しんでほしい。

笑ってほしい。

新しい人に出会ってほしい。

美味しいものを食べてほしい。

自分の人生を生きてほしい。

そう思っているのではないでしょうか。

だから僕は、死に触れたときこそ動物や自然から学ぶことがあると感じています。

自然は、立ち止まりながらも流れていきます。

そして僕たちも、本来その流れの中にいる。

過去はもうありません。

どれだけ願っても戻ることはできません。

だから、過去に戻ろうとして「今」を失ってしまうことのほうが、僕にはもったいなく感じます。

亡くなった人を忘れる必要はない。

思い出を消す必要もない。

ただ、その人との思い出を抱えながらも、自分は自分の人生を生きていく。

それが、亡くなった人への一つの敬意でもあるのではないかと思っています。

僕は自然の中で死にたい|葬儀に感じる違和感

僕は昔、自分がどのように死にたいのかを考えたことがあります。

その答えは、今もあまり変わっていません。

死が近づいてきたとき、それに気づくことができたなら、僕は自然の中へ行きたい。

そして、静かに死にたい。

土や植物や微生物や虫たちに、自分の身体を還したい。

今まで自然からたくさんのものをもらって生きてきたのだから、最後は自分の身体を栄養として自然に返したい。

誰の目にも入らず、静かに死んでいく。

僕にとっては、そんな死で十分です。

  • たくさんの人を集める
  • 葬儀のための時間をつくる
  • 棺を用意する
  • 墓石を用意する
  • さまざまな商品やサービスがそこに生まれる

もちろん、葬儀によって気持ちを整理できる人もいるでしょう。

人が集まって亡くなった人を思い出し、感謝を伝える時間そのものには意味があると思います。

だから僕は「葬儀をするな」と言いたいわけではありません。

ただ、ふと思うのです。

一体、誰のために葬儀をしているのだろう?

亡くなった本人が望んでいるのか。

それとも、残された僕たちが「何かをしなければならない」と思っているのか。

そこには、ときに残された側のエゴや不足感も混ざっているのではないかと僕は感じています。

死を必要以上に美化する。

立派な葬儀をする。

立派なお墓を残す。

名前を刻む。

「忘れてはいけない」と思う。

でも、どれだけ大きな墓石を建てても、どれだけ立派な葬儀をしても、時間は流れていきます。

亡くなった人を悼んでいた人たちも、数十年後には亡くなります。

100年もすれば、その葬儀に参列していたほとんどの人も、この世界にはいないでしょう。

さらに長い時間が経てば、僕たちの名前を知っている人さえいなくなるかもしれません。

自然を見ると、何かを永遠に残そうとしていません。

桜は散ります。

落ち葉は土になります。

動物の身体は分解され、別の生命の一部になります。

「自分がここに存在していたことを永遠に覚えていてほしい」

そう願う気持ちの中には、「忘れられること」への恐怖があるのかもしれません。

自分の名前を残したい。

自分の存在を残したい。

自分が生きた証を残したい。

それもまた、人間のエゴなのかもしれません。

僕は、忘れられてもいいと思っています。

自分という形がなくなって、自然の中に溶けていく。

それくらいの死が、僕には自然に感じられます。

死ぬまでの「残りの時間」として生きると、優先順位が変わる

先ほどお伝えした通り、自分がいつ死ぬのかはわかりません。

残りの人生

でも、

「いつ死ぬかわからない。でも、いつか必ず死ぬ」

ということを自覚して生きるだけで、人生の優先順位は大きく変わると思っています。

例えば、嫌なことを我慢し続ける生活。

嫌な仕事を続ける。

嫌な人間関係を続ける。

本当はやりたくないことを「仕方がない」と言いながら続ける。

なぜ、それができるのでしょうか。

一つには、

「5年後には報われるかもしれない」

「10年後には理想の生活ができるかもしれない」

「老後になったら自由になれる」

という未来を前提にしているからだと思います。

つまり、自分が数年後、数十年後も生きているという前提で人生を設計している。

でも、その前提を一度外してみたらどうでしょう。

明日死んでもおかしくない。

来週かもしれない。

来月かもしれない。

来年かもしれない。

もちろん、死を恐れながら毎日を過ごせという意味ではありません。

むしろ逆です。

死がいつ来るかわからないからこそ、

「では、今日をどう生きたい?」

と自分に問いかけるのです。

もしそう考えたとき、今我慢していることをそのまま続けたいでしょうか。

それとも、

「これはもういいかな」

と手放すでしょうか。

僕は「死ぬまでの残りの人生」と考えるようになってから、少しずつ生活からいらないものを減らしてきました。
  • ・嫌なことに気づくたび、それを日常から手放す
  • ・いらない人間関係を断捨離する
  • ・我慢をやめる
  • ・自分の本音を無視しない

もちろん、全部を一瞬で捨てたわけではありません。

生活があります。

お金も必要です。

人との関係もあります。

だから、できるところから少しずつ減らしてきました。

その結果、僕自身の経験としては、

・ストレスが減った

・以前より体調を崩しにくくなった

・自分の本音や心の声に敏感になった

・呼吸が深まり、心と身体がゆるむようになった

そんな変化を感じています。

死ぬまでの「残りの時間」という前提で生きてきたことに、僕は1ミリも後悔していません。

むしろ、もっと早くこの前提を人生に取り入れてもよかったと思っています。

社会的な「成功」を手に入れられなくてもいい

死ぬまでの「残りの人生」という前提で生きることで、この社会が理想や成功とするものを、僕は得られないかもしれません。

たくさんのお金。

立派な肩書き。

大きな家。

社会的な地位。

老後まで安心できるほどの資産。

そういうものを手に入れられない可能性もあります。

でも、僕はそれでもいいと感じています。

なぜなら、社会が考える「成功」と、自然の中にある豊かさは、必ずしも同じではないからです。

自然は、右肩上がりに成長し続けません。

春が来て、夏が来て、秋になり、冬になる。

芽が出て、成長して、枯れて、土に還る。

増えるときもあれば、減るときもある。

活動するときもあれば、休むときもある。

僕はできるだけ、その自然の流れに沿って生きたいと思っています。

死は宇宙の素(神)に戻ることである

宇宙

私たちはどこから来て、どこへ行くのか。

その答えは、誰にもわかりません。

僕にもわかりません。

でも、自然を見ていて感じたことがあります。

私たちは、生きているときから自然の一部です。

水を飲む。

植物や動物を食べる。

空気を吸う。

太陽を浴びる。

そして、身体からいろいろなものを自然へ返している。

僕たちの身体は、最初から自然と切り離されていません。

そして死んだあとも、自然の一部であることに変わりはない。

身体は分解され、別のものになっていきます。

そう考えると、

「死んだら、どこへ行くのか?」

という問いそのものが、少し違って見えてきます。

どこかへ行くのではなく、

僕はそんなふうに感じています。

もし、この万物そのものを「神」と呼ぶのであれば、僕たちは生きているときから神の一部であり、死んでも神の一部です。

だから僕にとって死は、「存在が完全になくなる」というより、

自分という境界線がなくなって、宇宙の素に戻っていくこと

に近いのかもしれません。

死は、流れの一部

以前、僕は「自然は流れ」だと書きました。

生と死。

それもまた、一つの流れです。

生という湧き水が生まれる。

それが小さな沢になり、

川になり、

いろいろな土地を通り、

ときには岩にぶつかり、

蛇行しながら、

やがて死という海へたどり着く。

川から見れば、海にたどり着くことは「終わり」なのかもしれません。

でも、水そのものが消えるわけではありません。

海になり、

蒸発し、

雲になり、

雨になり、

また山に降る。

そう考えると、生と死も僕には似たものに見えます。

僕たちは「自分」という一つの形をとって、この世界を流れている。

そして、いつかその形がなくなる。

それは自然の摂理であり、

それ以上でも、それ以下でもない。

だから、死は特別なものではないと僕は思っています。

でも、

特別ではないことと、大切ではないことは違います。

死は、誕生と同じくらい大切であり、尊いものです。

生まれることだけを祝って、死ぬことだけを忌み嫌う。

僕には、そのほうが不自然に感じます。

死を受け入れることは、自然の摂理を受け入れることでもあります。

死を受け入れると、生が見えてくる

この社会を見ていると、死を避けようとする人がいます。

死を恐れる人がいます。

死について話すこと自体を避ける人もいます。

もちろん、死が怖いという感情も自然です。

僕だって実際に死が目の前に来たとき、今書いているように穏やかに受け入れられるかはわかりません。

怖くなるかもしれない。

生きたいと思うかもしれない。

それも含めて、人間なのだと思います。

だから、死を恐れてはいけないと言いたいわけではありません。

僕たちは生きています。

だから、死はやってきます。

それだけです。

そして不思議なことに、

死があることを本当に受け入れると、「どう死ぬか」より「今日をどう生きるか」が大切になってきます。

あと50年あると思えば、今日くらい我慢できる。

あと30年あると思えば、嫌なことを先延ばしできる。

でも、残り時間がわからないと思えば、今日会いたい人に会いたくなる。
伝えたいことを伝えたくなる。
嫌なことを減らしたくなる。
自然に触れたくなる。
ちゃんと食べたくなる。
ちゃんと眠りたくなる。

そして、自分の人生を生きたくなる。

僕にとって、死を考えることは暗いことではありません。

むしろ、

生を取り戻すことです。

いつ死ぬかはわからない。

でも、今は生きている。

だったら僕は、

まだ来ていない未来のために今を犠牲にするのではなく、

今ここにある自分の時間を、できるだけ大切に使いたい。

嫌なものを少しずつ手放して、

身体をゆるめて、

呼吸をして、

好きな人と過ごして、

自然に触れて、

最後に死がやってきたら、

「ああ、ここまでか」

と受け入れる。

そして、また自然に還っていく。

僕は、そんなふうに生きて、そんなふうに死ねたらいいなと思っています。

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