瞑想と聞くと、何を思い浮かべますか?
おそらく胡座をかいたり、ヨガのパドマーサナという蓮華座のポーズで座って、手を膝の上に置き、静かに深呼吸をする。
そんなイメージが出てくる方も多いと思います。
もちろん、それも立派な瞑想だと思います。

僕自身も「瞑想とはそういうものだ」と思いながら、2024年、インドのヨガの聖地であるリシケシに足を運びました。
目的は、ヨガ哲学を学ぶこと。
そこで約3週間、ヨガの先生になるためのプログラムを提供している学校に入りました。

学校はリシケシの街から少し離れた場所にあり、夕方になると、ものすごく美しい夕焼けを見ることができました。
朝はハタヨガ。
日中はヨガ哲学。
夕方はアシュタンガヨガ。
そして一日の最後は瞑想。
そんなスケジュールをほぼ毎日繰り返していました。
でも、そこで経験した「瞑想」は、僕がそれまで思っていた瞑想とはまったく違いました。
炎を見続ける。
怒りを叫びながらクッションを殴る。
目を閉じて40分間、ひたすら踊る。
「これも瞑想なの?」
最初はそう思いました。
でも、実際に身体ごと体験してみると、
瞑想とは静かに座ることではなく、「今ここ」に戻ってくるための方法なのかもしれない。
そんなふうに、僕の中の「瞑想」という価値観が少しずつ壊れていきました。
この記事では、リシケシで出会った3つの瞑想について、僕自身の体験を交えながら紹介します。
トラタカ|炎を見つめ続ける瞑想

僕は幼少期から、炎を見つめるのが好きでした。
炎はずっと同じ形をしていません。
ゆらゆらしたり、静かになったり。
時には大きくなり、時には小さくなる。
まるで生きているような、魔法のような存在です。
でも、炎の中心にある、太陽の光を閉じ込めたカプセルのような光をずっと見続ける、ということはしたことがありませんでした。
だから先生から、
「今日は炎を見る瞑想をします」
と言われた時は、驚きと喜びでいっぱいでした。
真っ暗なインドの夜と、5本の蝋燭
夜になり、みんなで普段ヨガをしている中央の会場に集まりました。
会場といっても、屋根があるだけで、ほとんど外です。

辺りには5本の蝋燭が灯され、その周りにクッションが置かれていました。
ヨガ哲学を学びに来ていた生徒は25人ほど。
席に座ると、瞑想の先生が指示を出しました。
「まばたきをしないで、ずっと炎を見てください。涙が出ても大丈夫です。時間になったら合図をするので、その後は目を閉じて、暗闇の中に残る炎の残像を見続けてください」
まばたきをしない?
どうやって?
と思いながらも、僕の中は好奇心でいっぱいでした。
周りの生徒たちが炎を見始めたので、僕も目の前の炎を見つめました。
最初は「まばたきをしない」ということに意識が向きすぎて、逆にまばたきをしたくなりました。
いけない、いけない。
そう思いながら、意識をもう一度、炎へ戻しました。
炎だけが残った
その炎は、とても美しかったです。
辺りは真っ暗。
田舎の夜は、本当に真っ暗です。
だからこそ、その中に浮かぶ炎は本当に暖かく、美しかった。
中に吸い込まれそうな。
そんな感じでした。
まだ1分くらいしか経っていなかったと思います。
視界がぼやけ、涙が頬を流れて落ちるのを感じました。
でも、どこかで涙も止まりました。
そして、頭の中の考えも少しずつなくなっていきました。
中が空っぽになり、
ただ、炎を見る。
炎の中心にある、太陽のような光を見る。
どれくらい時間が経ったのか、わかりません。
その瞬間だけ、時間というものが存在しなくなったような感覚でした。
しばらくすると、鐘の音が聞こえてきました。
先生から、
「目を閉じていいよ」
と合図がありました。
目を閉じました。
でも、
炎はまだありました。
え?
今、目を閉じたよね?
もちろん、目は閉じています。
でも、暗闇の中に炎の残像がものすごくリアルな形で残っていました。
突然懐中電灯を向けられたり、太陽を見た後に目を閉じたりした時に残像が残ることがありますが、僕にはそれよりもずっと強く感じられました。
その炎の残像に意識を向けながら、ゆっくり呼吸をしました。
少しずつ残像は薄くなり、やがて消えました。
そして先生の合図で目を開けた時、
世界が少し違って見えました。
世界が違って見えたのか。
自分の「見え方」が変わっていたのか。
それはわかりません。
ただ一つわかるのは、
頭の中の考え事が減っていて、透き通っていたこと。
そして、なんとも言えない心の余裕があったこと。
トラタカという瞑想。

OSHOダイナミック瞑想|怒りまで瞑想になる


インドの瞑想や思想に大きな足跡を残した人物の一人に、OSHOがいます。
彼の本は世界各国で翻訳され、現在もOSHOの瞑想法は世界中で実践されています。
そしてOSHOが生み出した瞑想の中に、
「OSHO Dynamic Meditation」
があります。
この瞑想が面白いのは、
静かに座るところから始まらないこと。
むしろ、
- 呼吸する。
- 叫ぶ。
- 泣く。
- 笑う。
- 身体を動かす。
そして最後に、静寂へ入っていく。
僕がリシケシの学校で体験した時、特に鮮明に覚えているのが「怒り」を表現した時間です。
「溜まっている怒りを全部出せ」
いつもヨガをしている、半分外のような会場に生徒が集まりました。
会場には、たくさんの分厚い枕やクッションが置かれていました。
そして瞑想の先生が言いました。
「これからOSHO瞑想を始めます」
「僕が合図をしたら、あなたが殴りたいやつ、復讐したいやつ、恨みを持っているやつ、怒りをぶつけたい人やものを思い出してもいい。なんでもいい。」
「とにかく、溜まっている怒りを全部出せ」
「ここにある枕やクッションを蹴っても、殴っても、投げてもいい。ただ、お互いを傷つけないように気をつけて、自分の怒りを出し尽くせ」
そして、合図。
おおー!! わおー!! ガー!! やーっ!!
そこにいた25人ほどの生徒が、一斉に暴れ始めました。
僕も、今まで溜まっていた怒りを声に出しながら、近くにあった枕やクッションを思いっきり蹴りはじめました。
周りの生徒も、それぞれ違う形で怒りを表現していました。
- 叫ぶ人。
- 泣く人。
- 殴る人。
- 蹴る人。
途中で僕は声を出しすぎて声が枯れてしまったので、パンチやキック、しまいにはプロレスの技までクッションにかけていました。



肚の底から「HOO!」
その後、
「ジャンプをして、地面に着いた瞬間に、思いっきりHOO!と腹の底から叫んで」
と教えてもらいました。
そこから約10分間。
ジャンプ。
着地。
HOO!
ジャンプ。
着地。
HOO!
それをひたすら繰り返しました。
25人のタイミングがだんだん合ってくると、とんでもなく大きな、
「HOO!」
が辺りに響き渡ります。
この時、
- 骨も振動している。
- 心臓も振動している。
- 身体全部が振動している。
そんな感覚がありました。
とても気持ちよかった。
まるで、肚の奥にこびりついていた感情や何か重たいものが、声と一緒に外へ放り出されていくような感覚。
終わった後は、
身体が透き通ったような感じがしていました。
cooment日本の住宅街でこれをやったら、さすがに苦情が来ると思います(笑)
でも、周りに家のない自然の中など、安全に声を出せる環境があるなら、この「身体全体で声を出す」という体験そのものは、とても興味深いものだと思います。
OSHOナタラジ瞑想|踊り続けた先にあった「凪」


OSHOの瞑想にはいくつもの種類があります。
その中でも、別の日に体験したのが、
ナタラジ瞑想(踊る瞑想)でした。
「今日は踊ります」
と言われた時、
これが瞑想?
と思いました。
音楽が流れる。
目を閉じる。
そして、その音を感じながら踊る。
どんな踊り方でもいい。
静かに揺れてもいい。
激しく踊ってもいい。
床を転がってもいい。
上手に踊る必要もない。
誰かに見せる必要もない。
とにかく、身体が動きたいように動く。
感じたものを、そのまま「踊り」という表現に翻訳していく。
何も考えない。
ただ、感じる。
目を閉じると、「上手に踊る」が消えていった


普段、人前で踊る時は、少なからず「見られている自分」がいます。
変な動きをしていないかな。
格好悪くないかな。
ちゃんとリズムに乗れているかな。
でも、目を閉じてしまうと、それが少しずつ消えていく。
そこに残ったのは、
- 音と、
- 呼吸と、
- 床の感触と、
- 自分の身体。
他の人にぶつからないように、時々周囲を確認しながら、ほとんどの時間は目を閉じて踊りました。
目を閉じながら踊るというのは、とても新鮮な感覚でした。
視覚から入ってくる情報が少なくなる分、
音がよく聞こえる。
足の裏で床を感じる。
空気が皮膚に触れる。
自分の呼吸が聞こえる。
身体の内側で何が起きているのかを感じる。
五感が少しずつ研ぎ澄まされていくような感覚がありました。
40分動いたあと、突然止まる
そして40分ほど経った頃、先生から合図がありました。
今度は横になり、
何もしない。
ただ、静止する。
これが本当に面白かった。
ついさっきまで、
踊って、
揺れて、
回って、
全身を動かしていた。
それなのに、
今は何もしない。
動と静。
その落差がものすごく大きい。
だからこそ、「静か」という状態がいつも以上にはっきり感じられました。
早かった鼓動が、
ドクン、ドクン……
と少しずつ落ち着いていく。
呼吸も、
少しずつ静かになっていく。
何かをしようとする必要もない。
呼吸を整えようとする必要さえない。
ただ、身体が勝手に静かになっていくのを感じていました。
そこには、
「凪」
のような空間がありました。
静寂は、最初から作らなくてもいい
そして、ここで僕は一つ面白いことに気づきました。
静かになるために、
最初から静かにする必要はないのかもしれない。
僕はそれまで、
瞑想とは、
動かないこと。
考えないこと。
呼吸を整えること。
静かになること。
そんなイメージを持っていました。
でもナタラジ瞑想では、むしろ逆でした。
最初に思いっきり動く。
身体が動きたいように動かす。
音楽を感じる。
汗をかく。
そして、
全部やった後に、何もしない。
すると、静寂を「作ろう」としなくても、
静寂が向こうからやってくるような感覚がありました。
外から入ってくる涼しい夜の空気。
遠くから聞こえてくる、インドの田舎の音。
床に触れている身体。
静かになっていく呼吸。
あの時ほど五感がはっきりしていたのは、本当に久しぶりでした。
僕は横になりながら、
「ああ、これも瞑想なんだ」
と思いました。
踊ることと、
静かに横たわること。
一見、正反対に見える二つが、
一本の線でつながった瞬間でした。


3つの瞑想を体験して、「瞑想する」という考えが変わった
トラタカでは、
見る。
ダイナミック瞑想では、
出す。
ナタラジ瞑想では、
動く。
やっていることは、全部違います。
炎を見つめることと、
クッションを殴りながら叫ぶことと、
目を閉じて踊ること。



後ろの二つを見て「それって本当に瞑想なの?」と思ったかもしれません。
でも、実際に身体で経験してみると、
3つには共通しているものがありました。
それは、
「今、この瞬間に身体で起きていることを感じる」
ということでした。
炎を見ている時は、
炎しかありませんでした。
怒りを出している時は、
声と身体しかありませんでした。
踊っている時は、
音と呼吸と身体しかありませんでした。
そして不思議なことに、その後にはいつも、
静けさがありました。
「静かにしよう」とするほど、静かになれないこともある
僕たちは普段から、
考えることに慣れすぎているのかもしれません。
- 仕事のこと。
- 人間関係のこと。
- 過去のこと。
- 明日のこと。
スマホを見れば、また新しい情報が入ってくる。
そんな状態で、
「はい、今から何も考えずに30分座ってください」
と言われても、
僕にはなかなか難しいです。
むしろ、
「考えないようにしよう」
と思えば思うほど、考えてしまう。
でもインドで体験した瞑想は違いました。
見る。
叫ぶ。
動く。
踊る。
身体を入り口にして、
頭から少しずつ離れていく。
そうすると、
最後に自然と静けさが残る。
僕にとってこれは、とても大きな発見でした。
瞑想は、特別なものではないのかもしれない
リシケシから帰ってきてから、
僕の中で「瞑想」という言葉の意味はかなり広がりました。
もしかすると、
瞑想するためにインドへ行く必要も、
難しいポーズを組む必要も、
特別な人になる必要もないのかもしれません。


炎を見る。
風を感じる。
身体を揺らす。
踊る。
呼吸を感じる。
裸足で地面に立つ。
何かを食べて、その味をちゃんと感じる。
目の前にいる人の声を、ただ聞く。
そうやって、
頭の中の世界から、
今ここにある身体へ戻ってくる。
それも僕にとっては、一つの瞑想です。
そして、この感覚は今、
僕が施術や身体のことを考える時にも、とても大切にしていることです。


身体を無理に変えるのではなく、
まず、感じる。
何かを足す前に、
余計なものを手放す。
頑張って静かになるのではなく、
動きたい時には動いて、
呼吸したい時には呼吸して、
最後に自然と訪れる「ゆるみ」を待つ。
インドの夜、
一本の蝋燭を見つめていた時間。
25人で腹の底から「HOO!」と叫んだ時間。
目を閉じて踊り続け、その後ただ床に横たわっていた時間。
やっていることはバラバラなのに、
今振り返ると、全部同じ場所に向かっていたような気がします。
頭から離れて、身体へ戻る。
そして、
今、ここへ戻る。
僕にとって瞑想とは、
静かになるために頑張ることではなく、
自分の中に最初からあった静けさに、
もう一度出会いにいくことなのかもしれません。


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